『人間といういのちの相(すがた)』07.3.11.

さて今回は私の最も尊敬する先生であり、友人である、佐野明弘さんの言葉で「人間といういのちの相すがた」ということを共に考えていきたいと思います。


2011年に宗祖親鸞聖人750回忌をお迎えします。いま2007年ですから、あと4年ですね。余談かもしれませんが、お東では、根本理念として「宗祖としての親鸞聖人に遇う」、御遠忌のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」ということでありまして、詳しいことは知りませんが立派な方々がこれがいいあれがいいとじっくり話し合われ、親鸞聖人の750回の法要の願いはこれにしようと決められたのですね。


それで「今、いのちがあなたを生きている」というテーマをうけて佐野さんのところにふつふつと生まれてきた言葉がこの「人間といういのちの相すがた」ということだといただいています。(何度も聞いて、最近ふと気付いた)


まず、テーマの「今、いのちがあなたを生きている」というのですが、「今」といっても「いのち」といっても「あなた」といっても「生きている」といってもどれひとつとってもはっきりしない、とおっしゃいます。
そして、私たちはどんないのちを生きているか、人間といういのちを生きている。実はそのことにひっかかるんだと。本当に人間として生きたことがあるか、「人間」をひきうけて生きたことがあるだろうか。いのちが人間という相(そう)をとってここにいる。それが私。間違いはないがそのことにひっかかるとおっしゃる。


人間であるということ、人間と生まれたことはどういうこと、教えを聞くということはどういうこと、本当に聞きたいか、人間であるということが問われてくる。難信の業がきいている。思いより深いところから問うてくる如来の業なんだとおっしゃいます。どうですかね。なんだか難しいですかね。


「人間といういのちの相すがた」を問うということ、
ちょっと余談ですが、じいちゃんが呼びかけて暁天講座をしていた時期がありました。大赤字になったので、やめてしまったのですが、その案内に「早朝に仏法に聴く会」と書いてあった、仏法をきくんでないんだ、仏法に聞くのだと、聞きました。


「人間といういのち相すがた」に聴く、それは宗祖親鸞聖人に遇う、聞くということになると思います、なぜか、親鸞聖人は人間を問うた。
それを機、機を明らかにする、と聞いてきましたね、罪悪深重煩悩熾盛の衆生というた、ね。和讃では、(『愚禿悲歎述懐和讃』の中に、)
真実の心がない、虚仮不実のわが身、清浄の心もさらにない<第一首>
外儀のすがたはひとごとに 賢善精進 現ぜしむ
外観は賢い、善い人、精進・がんばっとるひとに見えるようにしとる、
ところが中身は「貪瞋邪儀おおきゆえ」
貪り(むさぼり)、瞋(しんに)いかり、です。邪よこしま が多い、
奸詐ももはし身にみてり<第二首>
無慚無愧のこの身、小慈小悲もなき身、
恥じるこころも、優しさもない、そうおっしゃっています。どうですかね。