永代経07.3.8. 講師 高田光順 師

(後半)今年の1月30日、突然、右目が見えにくくなりました。「どうしたのかなぁ、コンタクトでも外れたのかな」コンタクトは外れていません。眼鏡に付け替えても目の状態は何も変わらない、まるで曇りガラスから覗いているような状態で、真ん中が特に見えにくい。


心配になって町医者に向かいました。町医者では「大きな病院で診察してもらった方がいい」といわれ、あくる朝、市内の大きな病院で診察をしていただきました。たくさんの検査を受けました、視力検査、見える範囲がどこまでなのか調べる?視野検査、採血、さらには目のMRI検査。MRI検査とは電磁波を使って詳しく調べる検査です。それから、目の血管の流れを調べる検査など、一日中検査を受けました。


検査の結果、「目の神経に炎症を起こしている」ということでした。母が心配して「金沢(内灘町)の病院に有名な眼科の先生がおられるから、そちらでみてもらおう」というので、その医科大病院で診察をうけることにしました。


検査の結果では、「右視神経炎」という神経に炎症をおこしている病気で、二週間ほど入院の必要があるということでした。「二週間なんて、思っていたよりずいぶん長いなぁ。大事な右目だからじっくりと時間をかけて治したい」と思い、治療に専念し、入院することになりました。


治療には九日から十二日の期間があり、神経の炎症を治すためにステロイド治療が有効とのことで、はじめは点滴治療、それから薬を服用しました。それでも視力が回復しない場合には、もう一度点滴治療に戻る。実は前もって、半年かければ治療をしなくても自然に視力を回復し治る、とお聞きしていましたので、あまり心配はしていませんでした。


神経内科の先生が診察にいらっしゃいました、両肩・両腕・両足をさすられ、感覚を調べられた。「病室を歩いて欲しい」といわれ、私の歩く様子をご覧になっていました。診察を終えると、「特に問題はないでしょう、眼科でも治療してもらいましょう。ただ、頭の検査をしておきましょう、七日に予約をいれておきますから」とおっしゃった。私は検査はあまりいいものではないけれども、受けないといけないなと納得しました。


ところが、点滴、内服治療がはじまっても、どんどん視力が落ちていき、日に日に見えにくくなりました。失明したのではないので、完全に見えないのではなく、光を感じることが出来ました。しかし、視力が低下し、はじめはわかっていた色がわからなくなりました。そして濃淡、色の濃い薄いの違いさえわからなくなってしまいました。目の前にどなたがいらっしゃってもわからない、そこに何か「塊」というか物体があるということくらいしかわからないほどの状態になりました。視力検査のでは看護士さんがこう指を出して「何本ですか」と問われるのですが、目の前にだされる指の本数さえもわからなくなり、答えることができなくなりました。


視力がどんどん低下して、精神的にどん底の状態で頭の検査を受け、その日の夕方結果を告げられました。「年齢のわりには、(私は33歳です)頭に二・三箇所不鮮明なところがあります。(高齢になるとみられる現象のようです)もっと詳しい検査を行いますので内科に移ってください」ということでした。


「内科」というその言葉で、「内科に移るなんて大変な病気に違いない」と奈落の底に突き落とされたように感じました。動揺しているところに、こうベットの横に「明日の検査」の予定が貼り出されました。検尿、採血、髄液の検査、視力検査、一日中検査検査検査のオンパレードで、「明日からどうなってしまうのだろうか?」不安でいっぱいでした。


それまでは、入院していても夜になるとまるで我が家にいるようにすぐにぐっすり眠ることが出来ていました。しかし、内科に移ることを聞いてから、不安で不安で眠れない、浅い眠りに入ってもすぐ起きてしまい、その後眠れませんでした。


検査では、採血は親指と人指し指くらいの大きさのガラス管に、9本も採血しました。これまで何度か受けたことがありましたが、それだけの本数を一度に採血するのは初めてで、驚き動揺し緊張しました。緊張のせいか7本目で血が出なくなってしまいました。その後検査が続き、終わりましてからいろんなことを感じていました。


「大変な病気だったらどうしようか、脳に不鮮明な場所があるということは脳梗塞なのか、髄液検査をするなんて白血病かもしれない」今から思うと恥かしいのですが、その時はそんなことばかり考えていました。35歳で若くして白血病で惜しまれつつ亡くなった芸人さんのことなどを思い不安いっぱいの時間を過ごしました。


入院して 日目、たくさん検査を終え、ようやく「髄液検査の結果、脳の炎症がない」と伝えられ、とても安心しました。視力が低下していた右目も薬が効いたのでしょうか回復していきました。濃い・薄いがわかるようになり、しばらくして色も認識できるようになってきました。苦痛だった視力検査がだんだん楽しくなっていきました。


少しずつ視力が回復してきたとき、以前に読んだ「あたりまえ」という詩を想い出していました。紹介します。

あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう。
あたりまえであることを。お父さんがいる。お母さんがいる。
手が二本あって、足が二本ある。行きたいところへ自分で歩いて行ける。手を伸ばせばなんでもとれる。音が聞こえて声がでる。
こんなしあわせはあるでしょうか。
しかし、だれもそれをよろばない。あたりまえだ、と笑ってすます
食事が食べられる。夜になるとちゃんと眠れ、そして、また、朝がくる。空気を胸いっぱいにすえる。
笑える、泣ける、叫ぶこともできる。
走り回れる、みんなあたりまえのこと。
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない。
そのありがたさを知っているのは、それをなくした人たちだけ。
なぜでしょう。あたりまえ。

この詩は井村和清さんが書かれました。井村さんは医者でした。この詩が書かれたのは昭和54年の元旦で、それからわずか20日後の1月21日に32歳の若さで肺がんのためにお亡くなりになりました。当時、井村先生には二人のお子さんがいらっしゃいました。飛鳥ちゃんとまだお母さんの中にまだ見ぬ子清子ちゃん、二人の愛する娘に贈られたのがこの「あたりまえ」という詩です。


実はこの詩に出会ったとき、とても感激して「これは皆さんに伝えたい」と思いました。でもそれは今から思いますと、「ただ知識としていい話だからご紹介したい」ということだったのですが、右目がどんどん見えなくなって、頭には不鮮明な箇所があるといわれ、このまま治らないのではないかという不安を抱える日々を過ごすというご縁をいただきまして、それまでは目が見えることに何の疑問もなく過ごし、「あたりまえ」という感覚すら持っていなかった私ですが、目が見える、あたりまえをよろこぶこの井村先生の詩を実感しました。


2月1日から23日までの入院生活で、多くのことを学ばせていただきました。たくさんの方がお見舞いにお越しくださった人々の温かさ、健康の有難さ、これまで学んできた言葉の尊さ、そしてもう一つ、
それは、自分の心の弱さ、醜さでありました。


普段は、このような尊い場所や自坊での仏様の前や檀家さまのご仏壇の前で「みなさん、念仏申しましょう」とお伝えしているのに、その自分がとてもはずかしいのですが、自ら念仏申せなくなってしまいました。入院したはじめはこれまで録音した先生方の講演などを聞いておりましたが、病状が悪化し、不安が募ると、自分の好きな音楽などを聞くようになりました。


教えでは、死の直前には、人間には三つの執着、とらわれがどうしても起こってしまう。その一つに、自分の肉体に対するとらわれがあります。どうしても、どんな人でも、自分の命を大切に思い、この命がなくなると感じると心配で心配でたまらなくなってしまうのです。私はまさにそうでした。


そうだからこそ、阿弥陀様は、自分の肉体に対するとらわれで念仏申せなくなるこのような私でも、見捨てられることはない。必ず、そのまま極楽浄土に連れて行って下されると誓われております。阿弥陀様の前では何も飾る必要がないのです。私だけではありません。人間の心の弱さを全て受け止められる。そのために仏様になられたのが阿弥陀様です。


法然上人は「念仏申す機は、うまれつきのままにて申すなり。」とお伝えくださっています。お念仏を称える事に何も条件はありません。取り繕う必要がなく、ただただお一人お一人そのままで、ありのままの姿でお念仏申すこと、これこそが阿弥陀様の願いが届いたときなのでございます。

南無阿弥陀仏

◆「そうだからこそ」「そのまま極楽浄土に連れて行って下されると誓われております。」もう一つ、「これこそが阿弥陀様の願いが届いたときなのでございます。」などはこちらの好みに作り変えました。反則かしら。

浄土宗のHPです。