『生死』①07.2.20.後半

先月数百万人の人生を変えたという本「パワー・フォー・リビング」を無料で進呈するという謎めいたテレビCMが、流れました。日本ではまったく知られていない米フロリダ州に本部を置く「アーサーS・デモス財団」という団体が、10億円という広告費をかけて、これはトヨタなどトップ企業と同レベルの広告費なんだそうです。全国紙の大半に全面広告が出され、折込や雑誌広告にも大展開、テレビでも何度も見ました。
秘密主義を貫く財団、情報が遮断されている。だから危ないのだ!(カルト的)
財団関係者には、厳しい秘密保持が求められ、日本でも秘密主義は貫かれる。財団の住所(東京都港区南青山のビル)を訪ねても、呼び鈴に応答はない。本の発送を頼む場合にも連絡先はない。「資料をお送りします」と応対するのみで、秘密に包まれている。
ドイツでは「宗教色が濃すぎる」としてCMが放送中止となり、日本のテレビ局でも対応は二分している。無宗教者のために83年に書かれた「パワー・フォー・リビング」英語版は、134ページの冊子に例え話を織り交ぜ、「神はあなたを愛している」「人類は罪深い」「何人たりとも神を受け入れねばならない」などと訴える。聖書を読むよう勧め、妊娠中絶や喫煙、同性愛には反対の姿勢。


cancam」という20代の女性雑誌を買って見た。この「パワーフォーリビング」の広告が載っていた。ミュージシャンのm-floメンバーの写真とメッセージ、

何のために生まれてきたのだろう。
何をすべきなのだろう。
(中略)
そして、あの日、僕は神を信じた。
あの日がなければ、いまも、人生に答えを見出せないでいた。
(中略)
今の僕には、心から信じられるものがある。
人生の答えも、いつも、ここからやってくる。
僕はこの本のメッセージで、人生の答えを見つけました。

<何のために生まれてきたのだろう。何をすべきなのだろう。>
という問いは、若い人の歌詞にもよくある。その大きな問いに目覚めるように気がつくときがあると思う。
<そして、あの日、僕は神を信じた。あの日がなければ、いまも、人生に答えを見出せないでいた。>
それを真宗では光明体験(こうみょうたいけん)とでもいうのだろうか、あるいは「回心えしん」というか、「回心ひとたび」(回心は一度)といいながら、回心はであい続けることだと和田先生は言った。わかったといって掴んだりしがみついたりすることを言い当てられた。もっとはっきりいうとこれを否定した。
最近買った『日暮らし正信偈』亀井鑛、では光明体験を「屁でもない」。


また佐野明弘さんは「迷いが深い」のだと。私たちはこうして聞いてはいるけれども何が聞きたいのか、逆に言うと聞かねばならないものがある。今日まで聞いてきたけれどももっと深い言葉が聞きたいということがあると思うんです。そういう自分たちの思いに先立つ何か宗教心というか、そんなものを一緒に考えていくことが出来ないかなと思っています。


答えをつかんでそれでもって一生涯やっていこうとするものが欲しいんですねぇ。これ一本でいけるぞと。何が来てもこいつで、あの時わかった喜びで乗り切っていこうと思っているんですよ。
ところがね、そうはいかないんですよね。その時わかったことでは終えられない、それは迷いが深いからね。人間は苦悩から去ることが出来ません。だけどその苦悩っていうことが、また新たなるいよいよ深い言葉を聞いていくことになるわけですけれどもね。だからどこまでも命のある限り聞いていきたいものがあるということでしょう。


思えば問題が深刻真剣なときは、「あの時わかった喜びで乗り切れた」ことは、ない。それを迷いの深さという、生きることは迷いが深い。しみるなぁ、とのんきな私は思った、どうですかね。


さて、最後にもう一言、<今の僕には、心から信じられるものがある。人生の答えも、いつも、ここからやってくる。僕はこの本のメッセージで、人生の答えを見つけました。>そんなことをご門徒さんや若い衆や子どもたちに言えないわぁ、すごいな。信じられるもの、私は、罪悪深重、煩悩熾盛、内懐虚仮、名利心、中途半端。もちろんこれは真実の南無阿弥陀仏(法の深信ほうのじんしん)から知らされる機の深信(きのじんしん)の内容なんだけれども。ああ、おちつけない、ということもあるな、佐野さんは迷いが深いと、迷いが深いから苦悩から去ることが出来ないとおっしゃっていた。


そして一番大きいのが、和田先生がのこしてくれた言葉、「妄念、妄想」こんな大事なことってないな。「正しいこと」で傷つけなくていいものね。なにか違うものになってたすからなくていいのだと思う。嘘やまやかしや偶像崇拝でない真実を求めたい。真宗というのは真を宗にする、真実を中心にする、ということですね。人生の答えかぁ。生老病死の他にあるのかなぁ。で、いるのかなぁ。
そんなふうに思いましたが、どうですかね。


さてそれではその浄土真宗の教えとはどういうことであろう、佐野さんはこのようにおっしゃいます。いかに生きるか、どうしたら・・・「どうしたら」は生活、行為、仏教の言葉で言うと、行(ぎょう)、常に私たちは行を問うという問いがほとんど、行を問う。「行」どう生活したらいいか、何をしたらいいか、行を問うている。それを難行、やってみても、すえとおらない、しかしやらなくても問題なんだ。そのときに常に行を問うているが、「信(しん)」なんだ、行の背景に信がある、それぞれに信心がある、というんです。さて、どういうことでしょうかね。


「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」「ああ、南無阿弥陀仏、ああ、なんまんだぶつ」と申すときにすでにたすかっておるんだと。

ところがこんな言葉があります。
「お念仏を申しておりますものの、踊りあがるほどの喜びもさほどおこってまいりませんし、また、いそいでお浄土へ参りたいという心にもなれませんが、いったいどうしたことでごさいましょうか」とお尋ねをいたしましたところ、

親鸞のこの心にも、そういう疑問があったのですが、唯円房ゆいえんぼう、あなたもやはり同じ心だったのですか。しかし、よくよく考えてみると、天に舞い地に踊るほど喜ぶべきはずのことを喜べないからこそ、いよいよもって往生は決定していると思うべきです。喜ぶべき心をおさえて喜ばせないのは、煩悩の所為しわざです。

ところが阿弥陀仏は、かねてこのことを見抜いておられて“煩悩具足の凡夫よ!”と呼びかけてくださるのですから、他力の大悲本願はこのような私たちのためにこそおこされたのであったかと頷かれて、いよいよ心強く思われるのです。


歎異抄』の言葉です。そしてこんな言葉が続きます。
また急いで浄土へ参りたいという心もなく、ちょっと病気でもしようものなら、このまま死んでしまうのではないだろうかと心細く思うのも煩悩の所為しわざです。

久遠の昔から今日まで、限りない流転を続けてきたこの苦悩のふるさとは、どうしても捨てがたく、まだ生まれたことのない永遠の安らぎの世界である阿弥陀の浄土が恋しくも思えないということは、本当によくよく強く盛んな煩悩だからでありましょう。

しかし、どんなに名残惜しいと思えても、この世の縁がつきて力なく生命の終わるときに、彼の阿弥陀の浄土へ生まれるのです。

そういう言葉をお伝えいたしまして、お話を終えさせていただきます。