通夜説法「死を縁として念仏の教えにあう」

昨夜一時過ぎにご連絡をいただきまして、かけつけたわけでございますが、どうも具合がよくない、ということは小耳に挟んでおりましたが、聞くところによると入院されてから三ヶ月だったということで、早かった、そんなはずはではなかったと嘆かれる方もこの中にたくさんおいでると思います。●●さんは寿算七十一歳、誕生日を迎えたら七十一歳だった、「若いがにね」「たいそした父ちゃんやったがや」そういうことを聞いております。

さて、子どもの死は親の死よりつらいと聞くことがあります。子どもをなくしてかわいそうやと、ところが先生がいうには、「かわいそうだというのは第三者、かわいそうだと泣いてはいけない、泣いたら嘘になる、人の死はめでたいこととして送っていく、生きるという仕事を終えた」とこういうことをおっしゃる、そして「どんな死に方でも。」とおっしゃった。

世間の中で考えると、若くしてなくなったいのち、90歳で亡くなったいのち。ところが長さではない、生まれてきた、生きた、死んだ、人生の中では一緒なんだと。いのちあるものの死は必然。大切な人が亡くなったとき、「残された家族は(その人を)どう失っていくか」ということがあります。聞きなれない表現だとは思います。亡くなった人をどうとらえるかというより、無くなった後にどのような関係を持つか、というたらどうでしょうか。

ある、子どもを亡くした親は「悲しみをのりこえるのが私たちのつとめ」というが、そうでもない。一周忌、三回忌、七回忌、十回忌、二十五回忌、五十回忌、悲しみは時間と共に増すものということもあります。私たち浄土真宗門徒は亡くなった人を縁として法要を続けてまいったということがあります、それは死者と残されたもののであい続ける場を開くという願いが先達(昔の人)よりこめられている。死を縁としてどうか南無阿弥陀仏の教えにおうてくれよと、こういうことなんです。仏教、真宗は死者と共に生きる道が伝えられてきた。葬儀、亡くなった人の追悼・追弔。亡くなった人を縁にして法要を重ねながら、悲しみを乗り越えるのではなくて、死者との時間をどれだけ共有できるか。そういうことでございます。

私も父を亡くしまして、時間がたって、悲しみが癒えたか、というとやはりそうでもないです。「悲しみを乗り越えるのではなくて、死者との時間をどれだけ共有できるか。」そういう言葉におうて、ああそうだったなぁと、これは是非お伝えしたいなと、そう思って今日参りました。

さてそれではその浄土真宗の教えとはどういうことであろう、先生はこのようにおっしゃいます。いかに生きるか、どうしたら・・・「どうしたら」は生活、行為、仏教の言葉で言うと、行(ぎょう)、常に私たちは行を問うという問いがほとんど、行を問う。「行」どう生活したらいいか、何をしたらいいか、行を問うている。それを難行、やってみても、すえとおらない、しかしやらなくても問題なんだ。そのときに常に行を問うているが、「信(しん)」なんだ、行の背景に信がある、それぞれに信心がある、というんです。さて、どういうことでしょうかね。

「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」という言葉があります。何を言っているかわからないかもしれませんね。今日一緒につとめた正信偈、あんな大きい正信偈の声は久しぶりでとても感激しました。ということはここにおられるかたはこの言葉をきいただけで、そうや、そうや、と思われる方がたくさんおいでるここと思います。現代の言葉で言うと、「ああ、南無阿弥陀仏、ああ、なんまんだぶつ」と申すときにすでにたすかっておるんだと、そういう意味です。

ところがこんな言葉があります。

「お念仏を申しておりますものの、踊りあがるほどの喜びもさほどおこってまいりませんし、また、いそいでお浄土へ参りたいという心にもなれませんが、いったいどうしたことでごさいましょうか」とお尋ねをいたしましたところ、

親鸞のこの心にも、そういう疑問があったのですが、唯円房ゆいえんぼう、あなたもやはり同じ心だったのですか。しかし、よくよく考えてみると、天に舞い地に踊るほど喜ぶべきはずのことを喜べないからこそ、いよいよもって往生は決定していると思うべきです。喜ぶべき心をおさえて喜ばせないのは、煩悩の所為しわざです。

ところが阿弥陀仏は、かねてこのことを見抜いておられて“煩悩具足の凡夫よ!”と呼びかけてくださるのですから、他力の大悲本願はこのような私たちのためにこそおこされたのであったかと頷かれて、いよいよ心強く思われるのです。

これは親鸞聖人の言葉で『歎異抄』という書物の中に書いてあることです。『歎異抄』は親鸞聖人のお弟子である唯円が書かれたといわれています。今申し上げましたところに「唯円房ゆいえんぼう」と親鸞聖人が呼びかけられておることが書かれているので、そうであろう、ということです。

そしてこんな言葉が続きます。

また急いで浄土へ参りたいという心もなく、ちょっと病気でもしようものなら、このまま死んでしまうのではないだろうかと心細く思うのも煩悩の所為しわざです。

久遠の昔から今日まで、限りない流転を続けてきたこの苦悩のふるさとは、どうしても捨てがたく、まだ生まれたことのない永遠の安らぎの世界である阿弥陀の浄土が恋しくも思えないということは、本当によくよく強く盛んな煩悩だからでありましょう。

しかし、どんなに名残惜しいと思えても、この世の縁がつきて力なく生命の終わるときに、彼の阿弥陀の浄土へ生まれるのです。

そういう言葉をお伝えいたしまして、今夜のお話を終えさせていただきます。
参考:『歎異抄講話2』廣瀬杲 法蔵館