自死・自殺研修会に参加して⑤自死の罪

佐野さんは、

僧侶がいのちの尊さを安易にといてそのことが遺族の人達を追いつめることがある。「自らいのちを絶つことはいのちに対する冒涜だ」とわかった者として説く事によって追いつめる。自死ということに対する僧侶の無知からくることを、私たちは留意しなければならない。

と言う、葬儀場でそんなことをいう僧侶を見たことが無い、私の周りには、お寺に住む人の自死が聞かれる事がある。身近だからそんな暴言は聞かれないのかなと思う。

「仏教では自殺は罪だから、地獄に落ちる」と言って、遺族を追いつめる恐ろしい僧侶がいるという、彼は何を語りたいのか。

そのことについて、ある方が「仏教では自死が重い罪であるといわれていたが、私が聞いたところでは釈尊の教団(原始仏教教団)では自死についての罪をむしろ説いていなかった、これはうろ覚えなのだが、舎利弗(しゃりほつ・釈迦十大弟子の一、阿弥陀経で名を呼ばれている)は自死をしたと聞いたように思う」「その後教団が出来てから自死の罪というのが説かれるようになった、つまりあと付けだと聞いたことがあります」

これは大いに納得できる。手持ちの釈迦十大弟子のマンガには外道に襲われた目連が業(ごう)を滅するために姿を消しているし、その後生涯を共にしようと誓った舎利弗も姿を消し二人の死は仏陀をこのうえなく悲しませたことだろうと書いてあった。はっきり書いてないが自殺のように読める。大体、断食の修行なんてすれすれ(死にそう)だと思うし、ミイラは成仏のためのやつもあったとか・・・これはその時物知りそうな先生たちも言っていた。

そしてまたある方が「Bという方が、これはおぼろげなのですが、仏教の一番重い罪は謗法(仏教を信じないこと)であり、自殺は心の病だから罪でない、と書かれていたように思います」といった。
これはすり替えだと思う。そして、自死する人は尋常でない、正気でない、病気だとひどいレッテル張られているようだ。正気で自死するのかどうなのか、私にはわからないし、そんなことはどうでもいい、五逆(殺生が含まれる)より謗法罪の方が重いというのは、ずっと聞いてきた。

殺すことは罪だ、人を殺すことも自分を殺すことも同じ殺す罪、それは、猫をはねるのも、虫を踏んで殺すのも、牛肉を食べるのも魚を食べるのも息してプランクトンを殺すのも、いのちのレベルでは同じだと聞いてきた。生きている事が罪であり、それを親鸞聖人は「無始以来(むしいらい・始まりが無いほどより)」の罪を生きる、といったと思う。

自死が罪だとか、地獄に落ちるだとかという言葉にどうか、迷わないでください、罪でもそうでなくてもいい、悪いとか良いとかは人間の勝手な価値観です。罪な死に方をしたから悲しいのでなく、それは勝手な価値観で、いないことが悲しい。

罪だからダメな死だなんて、言わないで欲しい、
と泣く事さえも、この国では難しいことを研修会で学んだ。
残された私たちは、残されたことできっと出逢っていく。
「すくわれる」という言葉がきかれた。「自死したことのお陰で」と思えることが出来たら「すくわれる」ことがあるのかもしれない。でも私は思う、それは「続かない。」相続せず、という表現がぴったりする。
出逢い続ける、日々生きる。
浄土真宗は身近な人の死を通して出逢うことが多い、500年もの昔から、毎日朝夕のお勤め(お参り)が勧められるのは、「相続しない私であるから、出逢い続け、日々生きる」ということを大切にしたのではないかな、と思った。


自死という生きかた」をした人から常に問われる、
生き方と呼ぶか、死んだというかはその人次第だから「自死を選んだ人から問われる」といったほうがいいかな。
残された私たちは出会いなおす、いのちを終えていったその人に思いを寄せることで出会いなおす。
親子や兄弟なら、亡くなってからの方が深いに出会いになるのかも知れません。
照れなく、人としてであっていける気がする。

ぐーまとまらない。あの人にメッセージをと思うのだけど。くやしい。人智に迷うべからず、真実の声を聞こう、真実は、罪だからダメな死だ、なんて決して言わない。まとまらん。がっくり。