自死・自殺研修会 講義 梶原敬一氏

講義 梶原敬一氏メモ
医者僧侶として
自死と呼ぶか、自殺と呼ぶか、追悼法会をわざわざするということ何なのか、
うつ、社会的に追い込まれてなど、それぞれに死に至る経過があり、一般化できない。
いのちあるものの死は必然。残された家族どう失っていく、
亡くなった人をどうとらえるかというより、無くなった後にどのような関係を持つか、対応というよりも、悲しむということでしか対話なされない。
ある、子どもを亡くした親は「悲しみをのりこえるのが私たちのつとめ」というが、そうでもない。一周忌、三回忌、七回忌、十回忌、二十五回忌、五十回忌、宗祖親鸞聖人にとっては七五〇回御遠忌。悲しみは時間と共に増すもの。死者と残されたものがであい続けるか、亡くなった人を縁として法要を続けてまいったということに意味がある。
寺で悲しむということがないのが残念
仏教、真宗は死者と共に生きる道が伝えられてきた。葬儀、亡くなった人の追悼・追弔。
亡くなった人縁にして法要を重ねながら、悲しみを乗り越えるのではなくて、死者との時間をどれだけ共有できるか。
死とは何か、人間としてどのように死と向かい続けてきたか、自死という言葉によって自殺ということではなく、一人の人が死という亡くなった事実に向かい合う、「殺」がおどろおどろしいから言い換えただけか、
自ら殺、「自殺」も殺人、自殺された人に非が無くても、人を殺す、殺すことは罪である。浄土真宗は決して自殺は悪いとは言わない、善導の言葉を聞いた人が、早く(死んで)浄土にいきたい、「死」悪いといわない。浄土教の中で言っているのではなく、殺生というところで罪である。
死んで自分自身を守るために自分のいのちを絶つ、いのちを絶って守るものは何か、それが自殺の本質ではないか、
憲法を変えて戦争をしようという動きがある。教科書
それでは生きれないと死ぬ人もいる。そういうことは報道されないが、死を持って伝えたいもの。

「死にたい」というのは小4、10歳くらいから、子どもの中に自分を殺してしまわなければならない、という感情がおこる。学校に行くようになってから、死にたいと思い始める。いじめにあうということがあるが、いじめが無くても、ある。

仏教が教える穢土、人間が生きることが困難であると教える。生まれたところが穢土である。生きているところでない浄土。穢土とは何か、知恵を持つということ、仲間を持つ、仲間に他ならない、家族も仲間、子どものときは家族ある程度歳をとると仲間、「五厘ご常」教育とおさなくても知恵を持ってくると現れそこに世間が現れる。仲間によって現れる世間、人間関係によって作られていく。世間に生きるか世間から出るか、出るということは死。世間に殺されていく死ぬ人もどっぷりつかっている。社会だけの問題ではない。

どうやって獲得できるか、
世間は私自身では、
死んだ人は悪くないというが、
生きとる、いいこと無い、世間の中でいいことは無い、求めること自体が難しい。ある少年が「いいこと、楽しいことが無い、辛いことばかり、ずっと辛い」といった。早く気付いてよかった。何かのためにでなくて、
「世間の中に見つからない、仲間や友達に裏切られ、
生きとって何の意味が」
「そうやな。生きてみんとわからん。」
死んだことで伝わること

親鸞90年生きて楽しかったか、楽しくは無い、楽しいまま過ごしたかったらわざわざ(知っている人や支えてくれる人がほとんどいない)京都に来ないはず。親鸞はなさねばならないものを人生の中に見出した。楽しいとか面白いでなく、なさねばならないことを見出した。

世間を超えるものが世間にあるわけが無い、医療で人間を救うわけが無い、
世間を人を殺した世間を見る。
精神科医は何を治す、心人を治すことはできない。人を診る事はできるが人世間として見ていない。専門家が溢れていることが問題。

いのちを懸けて問い続ける以外に無い、いのちを懸けて問い続ける、いのちに向かって。
それ
まさに生きることの素人しろうととして立ち向かったのが僧侶

深く信不具足しんげん
坊さんがなにを
仏教決して専門家しない、専門家できない、一人一人立ち返ったとき全ての人に通じる。
努力、能力でなく、一人の人間でただの人間、専門家でない。方法を持たない。出世間、世間ではない、世間をいかにあきらかに
大谷派では全戦没者追悼ついとう法会
戦争によって殺された、戦争とは何かを問う。
知らない人に問う、観念
本当に殺したものは何か、
地震阪神大震災まとめて集まって追悼する。個人の法要との違いは世間を問うための集い。

自殺とは世間が殺す、世間は私自身。
韋提希いだいけは親殺しを世間に見た。
ビデオで高校生の女の子が親を殺したと思うかと聞いた、青年は思う、これが大事、たちあったもの決して傍観者になれん。死を救えなかったものとしてみな共犯者

いのちを見失うことによって
「貧しくてもみんなで生きたかった、」それは円満な家庭だから。
親に殺されようとする子もいる、親に捨てられる子もいる。
どのような形でうけとめていかねばならないか。

世間の中で生きる限りそう、
世間でないもの根拠に、生きることの根拠自分自身。
自分が生きていく世界何を作る。
自分と諸仏、自分と阿弥陀仏。もっと伝えなければならない。

世間に生きられず、世間で、
死という生を生きている。
寺の仕事きちんとやる、
死んでいく過程に立ちあう、聞いた結果広がってくるものをずっと受け止めていく。浄土、阿弥陀
田舎の寺は、死は一つの過程、葬儀を縁にしてずっと付き合う、葬儀をもう一度考える。臨終というのはこれから一緒に死ぬということ、死者が死を成就

しゃべらなければいい、しゃべったら楽になるというのは大間違い、
世間にしゃべる

ガンの人、死ぬのが怖い、自分だけが辛い、しんどさにおいては差が無い、
生きていることにそんなに差は無い、逃げようとするから辛い。

念仏をすることによって、本当に大切なことは念仏すること、しゃべることも
念仏を待つ
若いときは待てない、面白いことを探すから間違い、あきらめ(諦)て生きあきらめ(諦)て死

子どもの死は親の死よりつらいという、
かわいそうだというのは第三者、かわいそうだと泣いてはいけない、泣いたら嘘になる、人の死はめでたいこととして送っていく、生きるという仕事を終えた、どんな死に方でも
世間の中で考えると、若くしてなくなったいのち、90歳で亡くなったいのち、長さではない、生まれてきた、生きた、死んだ、人生の中では一緒、
死者と共に

生きるだけ生きなければならんというのは倫理、人間はいのち、
親鸞は無戒名字、人間としての倫理、出世間の倫理
一人一人、仲間でない、

場所というものに立って、やらねばならない、封建制、時代、
仲間場所によって作られている。
死んだ人は生まれたところに帰る、生きる場所に帰る。場所と共に生きる。だから法事に集まる、葬式、法事も仏教、法事がなくなったら坊さんやめ
お念仏とは何か、
浄土から世間穢土
追悼会
穢土がリアルか浄土がリアルか、

親鸞の残した言葉を通して
真似事でも
90歳という
悲しみは個人のもの一般化できない。残されたもの集まったとき、悲しみは一人で悲しむもの、誰かがいればいい、僧侶であればいい、

悲しみいろいろ
悲しくないのに感情に引きずられて情けない。
泣いている自分に酔う、悲しい、
善人でない、
涙もでない、悲しむことすらない悪人、

(昨日の講義を聞いて)世間の中に坊さんいなくなった。
どのような形で運動に関わるのか、
問題としてあること、
全体で何かするのがいいのでない、全体ではいけないのでない。
浄土の問題になっていないとダメだ。社会の問題が浄土の問題に。