通夜説法後記(汗)

今回の通夜説法は、一番言いたかったことだけしか、話せなかったので、残念だった。一番話したかったことは、
「なんや知らんけど熱心やった」おじいちゃんおばあちゃんが大事にしていた、そして当たり前のように家にお内仏があるけれど、どんなふうにいいのか、なぜ一生懸命になっていたのかわからなくなっています。それは一体どういうことだと思いますか。という呼びかけ。


話せなかったこと、自死研修会から突きつけられたこと。しかし、これはまとまっていない。毎日混沌としているので、不可能だった。


話せなかったこともう一つ、先日ブログに書いた、
<今の僕には、心から信じられるものがある。人生の答えも、いつも、ここからやってくる。僕はこの本のメッセージで、人生の答えを見つけました。>
という言葉について、信じられるもの、私は、罪悪深重、煩悩熾盛、内懐虚仮、名利心、中途半端。そして「妄念、妄想」。なにか違うものになってたすからなくていいのだと思う。嘘やまやかしや偶像崇拝でない真実を求めたい。人生の答えかぁ。生老病死の他にあるのかなぁ。で、いるのかなぁ。
ということ、これをどのタイミングで入れるか、そして本当に話すべきかも迷って、話せずじまいだった。話している途中にごたごたもあって「早く終わらせなきゃ」とみょうにおろおろした、ハンパな仕事してんじゃねーよ、と自分を叱っている。


しかし、許してやるのも自分でなければならない、
今日の話には「答え」がなかった。もちろん「浄土真宗を一言で言うと、」からはばっちり答えなんだけれども、すでにこれは日本語ではない、まして通夜の席はこの言葉で「そうかそうか」とうなずく方はわずかである。それに気付いたのが話しているときだったので、カンペキにおろおろして、最後の言葉となった。逃げではない、家で原稿作っていたときは、「よし、これでいこう!」と思えた。アホだ。


でも、こんな言葉を思い出すことにした、「同朋会館は、答えを伝える場ではない、問いを持って帰ってもらう、それが大事なんだ。」そうであれば、そんなにへこむことはない。でも「なんじゃやっぱりわけわからんなー」と取りつくしまもない感を与えたのかもしれない。ああ、ごめんなさい。通夜説法しんどい。元気にお念仏の教え語るわけにもいかんし。


実はがっかり帰る私を心配してか、匿名の電話がかかった、「おばあちゃんの思い出とか話してくれて、とってもよかったと思うよ、若いのにちゃんとがんばっとると思ったよ、それからもがんばってください」と。ありがとうございました。本当にがんばります。


ブログに書けて、整理できたので、すっきりしました。ありがとうございました。