書初めに「じぶん」

保育園の連絡帳「おちょうめん」に、書初め遊びをしたことが書かれていました。「どんな字書きたい?」と先生がたずねると、娘は「うーんと、わたし、じぶんってかく!」とこたえて、「ぶ」を書くのを手伝いってもらって「じぶん」を書いたということでした。その後先生は、もしかしたら「自分で書く」といっていたのかもしれない、と思ったとのことでした。

書初めに「自分」なんて、すごいと思います。私には書けない。ただし4歳の娘が、大切にしているなにか一言がある、(それが自己愛)なんてのは考えにくいから、今週末にいただくことになっている「無慙無愧」の掛け軸をきっかけに話をしようと思う、と「おちょうめん」に書いた。

帰りお迎えに行ったら先生が、なんて読むんですか、とたずねてくれた。なんだか(押し売りのようで)申し訳なくて玄関で真っ赤になってしまったが、「無慙無愧むざんむきは慙(ざん)は天に恥ず、愧(き)は地に恥じるといって」と言ってつまってしまい、「そうだ、近い感じの言葉でキリスト教に懺悔という言葉があるけれど、その懺悔するこころがないということです」「じぶん、の反対ですね」と話した。

キリスト教では懺悔ざんげと読んでいるようだけど、仏教では懺悔さんげと習ったが、これも仏教用語の「呉音読み」なんでしょうね。「無慙無愧」は、はじる心なく、人を傷つけ、自分を傷つけてばかりいる、私を照らす言葉だと思います。

親鸞聖人の言葉にはいくつかこの「無慙無愧」がある。僧侶の学校へ行っていた時の一学期の通信簿に「無慙愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす」と書かれたことが忘れられない。先生に聞いたけれど、なぜその言葉を書いたのか教えてくれなかった。この言葉が書かれている、『教行信証』信巻を開く。

亜闍世(あじゃせ)という王がいた。父王を害したことに因(よ)って、亜闍世は己れが心に深い後悔を生じた。日々につのる悔情は、そのため身体から異臭を放ち、膿(うみ)を生ずる病となって現れた。その瘡(かさ)の臭いたるや、近づくことも戸惑うような悪臭を放つものであった。
そのとき母の韋提希(いだいけ)は、種々の薬をもって塗り与えるが、その瘡は増すばかりであった。亜闍世は韋提希に言う。「この瘡は心より生じているのです。外からのものならば薬の用いようがありましょうが、心の瘡はそのための薬でなければ、癒しようがありません。」(ここまでは『王舎城の人々の物語』比後孝より引用)

その時に医者の耆婆(ぎば)が言ったのがこの言葉であった。「二つの真実の教えがあります。それはよく生きるものを救います。一つは慙、二つは愧です。「慙ざん」は自ら罪を作らない、「愧き」は罪を他に教えて作らない。「慙」は自ら羞恥する、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞じる、「愧」は天に羞じる。これを「慚愧」と名づける。「無慚愧むざんき」は名づけて「人」としない、名づけて「畜生ちくしょう」とする。…善いですか亜闍世大王、あなたにはつぶさに慙愧があります。」
畜生というのは家畜などのことで、一人では生きれないもののこと、自分の責任を転嫁するもののことだといただいている。ぎゃー、聖典を開いたら「慙(ざん)は人に羞ず、愧(き)は天に羞ず、」(慙(ざん)は人にはじる、愧(き)は天にはじる、)と書いてあった。…いつから間違えて言っているのだろう。かなしーくなる。そんな「じぶん」が嫌いだからママは書けないな。しかし、小さな娘には先生が伝えてくれたように、「自分を大事に出来る事はよいことやね」と伝えるのがいいと思う。自分を大事にすることが同時に人も大切にすることになるように願う。