迷いのままに

おじいちゃんは節談説教の説教者でした。節談説教というのは、禁止されたと言われています。じいちゃんの説教を聞いていると、「うけ念仏」というて、話の合間合間に聞いておられるおばあちゃんたちが、それは、波のように「なんまんだぶつ」と念仏申している。おそろくここにおられる方々は、そんな先輩たちに出会ってきたから、こんな寒い時もここにこうして座っておられる。聞いた話が喜びにならないのは、話しとる私のせいでもありますが、僧侶になってそろそろ20年ですが、どこで話を聞いても私はうけ念仏を聞いたことがないです。

節談説教がいらなくなったのは、念仏喜んで生きるものがいなくなったからでないですか。親鸞聖人700回忌をご縁に、家の宗教から個の宗教へをスローガンに掲げた同朋運動が始まります。一説によるとそこで切り捨てられたのが節談説教です。念仏の教えを喜んで念仏するものに、「その念仏に中身はあるか」と問うんですね。なんで念仏しとる。もともと不思議やというものに、あえてその念仏はなんだというたんですね。「朝晩お内仏にお参りしております」と、「あなたが手を合わしているのは亡きご先祖でしょう。お内仏は先祖供養の壇でない」、「家内安全、商売繁盛願うもんでない、それは念仏でない。」「だいたい自分が称えようと称える念仏は念仏でない。」
よろこんで称えてきたものの芽を摘んできた。いまとなっては同朋運動に批判も多いです。けれども私は、どれだけ話を聞いてもなぜ喜べないのか、ということがおじいちゃんの節談説教を排除した同朋会運動によってあきらかになった。現代人は 意味を求める。念仏に意味があるか。念仏こそがどれだけ救いだと言われても納得できないと信じることなどできない。意味がないようならとりつくしまがない。そして、念仏に出会った喜びをどれだけ聞いても私が今生きることの根本的な闇を払うような救いにならない。それはなぜか、救いを求めていない私を知らされた。

ところがね、そこからなんです。救いを求めない私を映すのが教えの鏡なんです。このままでいいのか、といういのちの根源の要求に押し出されてみな聴聞に来られている。聞きたいのは何かとても聞かねばならないものを感じているのだけど、何を聞きたいかなぜ聞きたいか漠然としている。これは私の問題ですが、問いを探しているだけもの、そして座っていながら、聞く気のないもの、救いを求めていないもの、はどうすればいいか。救いを求めていないものは救われるか。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。

迷っていないものに教えも救いもいらない。迷いの凡夫と照らし、立ち返らすのが念仏の教えです。
K寺御正忌法話2011.12.18.より