考える絵本 「死」谷川俊太郎

友人から聞いた谷川俊太郎の詩を探して、本屋をうろうろした。親切な店員さんに書店にあるものをピックアップしてもらった。だめもとだったので、探しているものはなかったが、気になるのを三冊買った。(外二冊は読んでちょっと考えてからにする。)

死 (考える絵本)

死 (考える絵本)

死んだらおじいちゃんではなくなるのだろうか。
おじいちゃんが死んだ日、その夜、葬式の日、
そして亡くなったおじいちゃんはどこへいったのか。
こうやって、静かに、死について、佇んで考えてみたい。
静かな絵の中で一枚だけ頭がぐるぐるするような、明るくて、不思議な何とも言えない絵に詩が添えられている。

生きているあいだは感じられなかったこと、
想像もできなかったこと、
そんなことが死んだら起きるかもしれない。
もしかするとそのとき、わたしは
もうちっぽけなわたしじゃ
なくなっているかもしれない

あとがきに小学校六年生の時におじいちゃんの死にであったことが書かれていました。その後家の近所で戦争で焼け死んだ人たちを見ます。ずっと死について、向き合ってこられたのかもしれません。


昨年の九月に私のおばあちゃんは浄土へ帰りました。
父が亡くなって本当にあらためていろいろ問い、求めたけれど、
おばあちゃんの死は、なぜか、まだ自分の中でまとまりません。いろいろ思うことはあるけれど、断片的で、思い出すのが、辛くて、悲しくて、痛い。
つくづく、人にはいろんな別れがあるものだと思います。
90歳を過ぎて寝たきりになり衰弱して亡くなっていくような別れは、病気や事故で失うのとは違った、言葉にできないような、
思い出が美談にならない。
在宅介護だったので、寝たきりおばあちゃんを見ながら、かわいがってくけた記憶のおばあちゃんと交錯するように、思えた日々だったので、優しい嬉しい遠い日の思い出も、寝たきりで誰のことも、何を食べているのかもわからない姿に重なります。
私たちはそれぞれに人には言えない悲しみを静かに抱えているのかもしれません。和田稠先生が「歳をとるのは豊かなことだ」といったけれど、まさに一つ一つ歳を重ねて、いろんな初事にあい、豊かになっていくのだと思います。この痛みが豊かな内容。


探していた言葉がネット上にあった。
谷川俊太郎さんに聞く 広報紙「サンガ」バックナンバー
http://www.prati.info/c/back/interview/47.html

「『谷川俊太郎詩集』ハルキ文庫」母を売りに
http://mille-feulles-vertes.blogspot.com/2009/01/blog-post.html
(↑ミル・ファイユ・ヴェルト 日々考えること)