正信偈、御文、和讃は私たちにとっては、お米のご飯のようなものである。

金沢教区の「坊守会だより」をぱらぱらと見ていた。両堂再建に尽力された妙好人・砺波庄太郎の言葉が紹介されていた。

正信偈、御文、和讃は私たちにとっては、お米のご飯のようなものである。
もし米のご飯に飽きが来た病人は、治すことができない。正信偈やご和讃などに飽きが来た人は、もやは助かる見込みのない病人である。
信心にとっては、朝夕二度読み上げるところの御文やご和讃ほどの良い食べ物はない。

約100年前の先輩の言葉、生活環境も価値観も変わっているし、素直に受け入れることができないところもあるけれど、たちどまったりふりかえったりしてしまう、力のある言葉。
そんなふうには生きていない、そしてそんなふうに生きる人をほとんど見なくなった。その生き方を手本にして、卑下するのではなく、いいわけを探すでもなく、その言葉に聞く。
おじいちゃんはいった、「を」と「に」には大きな違いがある。