お聖教というものは国語の教科書ではない。

携帯からネコの写真を送って、自分で書いた「不感症」という言葉に立ちどまる。『歎異抄講話3』廣瀬杲(法蔵館)を読んでみたら、やはりいろんな発見があった。だから読むのが嫌だった気もする。読んだら興奮して震えたが、もうきっと間に合わない。それで今回十四条はもう少し時間を費やす事にする。いつもは二ヶ月に一回くらい担当しているお講だけど、所要により10月から12月まで毎月皆さんにお会いできるから、いい機会だと思う。


廣瀬先生はこの『歎異抄』十四条に「如来の仕事を盗む者」というタイトルをつけた。これは清沢満之(先生)が使った言葉。


十四条は読みにくいのだという。

ところで『歎異抄』十四条の本文は、お読みいただければ、ことわりとしてはわかるものです。ところが厄介なことに、このお言葉が非常に読みにくいのです。すでに曽我量深先生がおっしゃっておいでになりますけれども、だいたいお聖教というものは国語の教科書ではない。ことに『歎異抄』というお聖教は非常に名文だけれども、名文というものは、まず文法を知ってから書くものではない。だからその人その人の、独自の文章というものがあるものだ。そういう意味では、『歎異抄』の十四条がわかりにくいといってみんな苦労するけれども、この文章を文法に合わせて、国語の教科書を読むつもりで読むからわからなくなるのだ。だから読みにくいと言っている気持ちそのものが『歎異抄』の十四条を教えとして聞こうとしていないのであって、国語の教科書のように読んでいるのだ。

・・・しょっぱな、叱られた感じ。
廣瀬先生は十四条を読むのにずいぶん苦労して、金子大栄先生の御領解、岩波文庫の中に述べられておられるものに、「なるほど、このとおりでいいのだな」と気付かれたということです。(『歎異抄』金子大栄校注(岩波文庫)、やはり、すごい。)以下、金子先生の御領解。

経には十念の称名によって八十億劫にわたる重罪が滅ぶと説かれてある。それは十悪・五逆の罪の重いことを思い知らせるものであって、念仏を滅罪の行にせよということではない。しかるに異義者はこの経説によって念仏滅罪説を立てるのである。それは全く他力の信心ではない。真実の信心は、一念発起の時に、すでに必ず仏になるべき身とならしめ、一生造悪のままにして命終に大涅槃を証せしめられるのである。その如来大悲の恩の有難さから念仏もうすのである。
それに反して念仏による滅罪の功によって往生するのであれば、罪業が無限であるから念仏に退転があってはならない。そして臨終のめでたさも期さねばならぬであろう。しかし病苦のいかんによっては、それも期しがたいことではあるまいか。
真実の信心は、臨終の正念にあるのではない。煩悩の日常において、摂取不捨の願心をいただくことにある。

参考:『歎異抄講話3 高倉会館法話集』(著者:廣瀬杲 発行:法蔵館)