蓮如忌2008.5.26. (2)

昨日聞法会へいって、一番印象的だった言葉は、
講師の上杉さんの控室に押しかけて話していたときに、
上杉さんは真宗本廟教導をしているのですが、
主な仕事に、本山に納骨をした後に参拝ホールというところで法話を聞くということがあるのだけど、(納骨をされた方はご存知ですね、)
「納骨をされた方というのは、初めて本山に来られたという方が多い、
この出会いは一度しか無いチャンスだと思っている、
そのチャンスに、『自分は真宗門徒である』ということを思い出してもらおうと思っている。」
そういうことをいっていた。


家族が亡くなって初めて、『自分は真宗門徒である』ということを思い出す。
それまで忘れているんですね。
私たちはこうしてお念仏の教えを聞く機会が開かれている、
だから、大丈夫でしょうか、
真宗門徒である事を忘れてはいないでしょうか。


では真宗門徒って何ですかね。
そういうことを念頭に置いてちょっと聞いていただきたいことがあります。

先ほどもねねが一年生になったと言っておったんですが、PTA会報原稿の依頼がありました。毎年恒例の新一年生を紹介するので、保護者からの子どもに対する期待、願い等をまとめて書くようにとのことで、(毎年、目にする、回覧版でまわってきますね、)下書きを作ってみました。

人は支えあって生きています。
だんだん一人で出来ることが増えているのがうれしい毎日ですが、
どうか忘れないで、つながりを生きていることを。
自分のあり方に痛みを感じる時に
人の痛みにこころが開かれる。(宮城障・しずか))
うれしいことばかりでなく、悲しいことも大切にしてください。
そして、うれしいことも悲しいことも私にわけてください。


そう書きまして、お兄ちゃんに見てもらったら、
書くことがズレてる、おかしすぎすぎる、あんたアタマおかしい、訂正しようにも手のつけようがない、といわれた。困りましたね。(笑)
よく見たら16マス×4行におさめなければならなかったので再検討した。


うれしいことばかりでなく、かなしいことも大切にしてほしいです。いろんなことをいっしょにかんがえていきたいとおもいます。


この最終形を住職に見せたら苦笑していたけれど、自分が書くのが嫌だから、まあ、ほんでいいわということになりました。なんかおっかしいかもしれんけれど、私はこんでいいんです。


子どもに対する期待、そんなことで、縛りたく無いです。勉強してほしいとか、運動がんばれとかあんまり思えない。勉強しなくても、運動嫌いでも、期待はずれだと思う必要がない。

いい子であるのは親や周囲の押し付けです。悪い子というレッテルは一方的な決めつけだと思っています。
いじめられても逆にいじめても、「さるべき業縁のもよおさばいかなる振る舞いもすべし」『歎異抄』の言葉ですね、殊更、驚くことでない。


願うのは、「普遍」。真宗門徒は真を宗とする。真実を中心とするなら、地位・お金・名誉、仏教の言葉で言うと、勝他・利養・名聞 、そんなものを願いたくはないです。
笑っていなくていい、元気でなくていい、しかし、共に歩きたい、共に真実を求めたい、時に迷って、傷つけあうこともあるけれども、悲しみもまた、大切なものとして共に生きたいと、そういうふうに思いました。しかし、(お兄ちゃんの批評にもあるように)どうやら、「門徒もの知らず」といわれるように、ちょっと世間様とははずれるようです。どうですかね。