蓮如忌2008.5.26. (1)

何を話しさせていただこうか、いつものように息詰まっていました。
なぜなら、お話させていただく機会がなかったなら・・・
娘が今年から小学校にいくようになったのですが、私の村は学校からとっても遠いから、スクールバスですが、バスが7時に迎えに来るから、
保育園の時は毎朝8時に起きていた親子が、
がんばって、6時に起きて支度して、ということから一日が始まって、
月忌参りに行って、これといって意識をせずにお経をあげて、
カーデニングに急に興味を持って、
花の苗を買って、プランターの土を買ってきて、本を買ってきて勉強して、
水やるだけでない、元肥やら追肥やら、花ガラつみやら、
ハダニを見つけて殺虫剤を買いに走ったり、
なんか始めるといきいきと、そして忙しくなる。
家事をして育児をして法務をして、
毎日あくせくと過ぎていきます。
お話する機会をいただいているからこそ、自分に出会う時間が与えられているような気がしています。


今回は、一昨日(おととい)くらいから、いよいよ焦ってきて、
私は(花や日々の生活に夢中だから)話したいことがないのか!? とまた迷っていた。すると、逆に、迷わない行き先を思い出しました。
どこを向いているのか、わからなくなったときに、迷わず行きたいところが、自分にある。有難いことだと思います。うれしくなった。


釈尊の言葉に「自灯明法灯明」というのがある。
自灯明 自らを拠り所とし、他を拠り所としない、
あんたが頼りだと、あんたのせいだとは紙一重ですね、
自分の生きることを人のせいにしない、

そして法灯明 人を拠り所とせず 法を拠り所とする
あの人が言った事だから信じるのではない。
「法」、言葉そのものを拠り所とする。


現在、私には行きたい場所がありますが、聞いたことに帰るということもあるような気がしています。それは「人」に依るのではなく、「言葉」に依るということなのだと思います。


三月の時にもお話していたのですが、私の友人が歎異抄二条の
二 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして(命懸けで)、たずねきたらしめたまう御こころざし(私のところにたずねてこられたのは)、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。(ただひとすじに往生極楽の道を問い聞くためです。)
というところの、
「当時の旅は命がけであったという、坊主の先生の戯れ言(ざれごと)に聞き飽きたので、なにが命がけなの?ということを証明したい」といって、東京から京都まで東海道を歩いたのですけれども、(東海道五十三次という長い道ですね。)
彼がなぜ歩いたのかふと考えることがよくありますが、
たぶん、
彼が歩いたのと同じ気持ちで、私はその場所に向かった気がしています。
家族には「○○寺さんでお話があるから勉強しに行かせてください」とお願いしたけれど、本当の目的は違う。


そういうことで、昨日は石川県の端ですね、大聖寺のSさんのお寺を訪ねました。Sさんのお寺は蓮如さんのゆかりのお寺で、蓮如上人ご命日である昨日は、当然、蓮如忌が勤められていました。
蓮如忌では講師を招き、Sさんはお話しないのを知っていたのだけど、行きたかった。
それは、今日話すことのネタが切れて、捜しに行ったのではなく、自分がどこを向いているのかわからないことに遇いに行った。自分を探しに行きました。


今日は、お参りいただきまして、
それぞれに用事があるに違いないのに、
それを差し置いて、今こうしてこの場に座られている。
皆さんお一人お一人に探し物があるなら、
お話するのが私なんかでいいのだろうかと、立ちすくむ思いがします。


私はおじいちゃんが布教使だったという縁で法話に呼んでいただくことが多くあります。この3月4月は法話に忙しく、あちこちで元気に話して、言い切って、いつもどこか不安だった。まるで「これが私の生きる道だ」とでもいうように話す自分が怖かった。

立ちすくんでいるくらいで、ちょうどいいですね、
このような場は、身に余る場です。
迷って、悶もんとして、そういう私をようやく見つけた。鼻が折れたような感じです。


今日は一緒に探していきたいなと思います。
なにを探すのかというと、なんしにきたんかということを、探したい。
そういうことをはっと思った。