「節分」の法事

今日は一周忌だった。「節分」ということが気になっていたので聞いてもらった。


浄土真宗の法事は死んだ人のためにお経をあげるのではなく、亡き人を縁に集い、お念仏の教えを聞く機会が開かれる場として願われてきました。


お父さんが亡くなってあっという間の一年だったと思います。私の父も今年七回忌を勤めるのですが、経験というとそのことだけで、今日は人生の先輩ばかりで。私が「死から学ぶことを」上手く言葉に出来ないので、今日はお念仏の教えを少し聞いていただきたいと思います。


今日は母に聞いたら「節分」だと言うことですね、私の娘が保育園の年長さんでここにも月忌参りに連れてきた事がありお世話になりましたが、この前保育園で「鬼のお面」というか、しっかりしたかぶるやつを作ってきた。それから、豆などをひらって入れる入れ物、こうかっこのいいやつです、そういうのを持って帰ってきました。


そのことについて先日門徒の(門徒会・推進員合同)研修会のご案内をいただきまして、それがとても「へんな案内や」と思いました。ちょっと読むので聞いてください。

節分で「福は内」と叫んで豆をまき、鬼を外へ追い払います。仏教ではこの場合の鬼は、“鬼は外”と叫んでいる人のことを指します。ですから自分に豆をぶつけて率先して外に出ていかなければなりません。なぜでしょう。よくお考えください。
・節分は仏教の行事ではありません。

「なぜでしょう。よくお考えください。」ってへんな案内やなと、「私はわかっているが、オマエは違うだろう、考えてみてください」みたいなね。


同じ時期に、保育園の「園だより」に、「節分」について書いてあった。

節分には、ヒイラギの小枝に、焼いたイワシの頭を刺して、玄関に飾っておく風習があります。(へーーそうなんかと、イワシか!仏教の行事でないということがありましたが、うちではやらないので知らなかった。)とがったヒイラギの葉が鬼の目をつき、イワシの強い臭いに鬼が逃げる・・・といわれています。
豆をまくことにより、自分のこころの中にある悪いところ(邪気)を追い出しましょう!!
昔からの伝承は大切にしていきたいものです。

なにも「鬼」という悪者を決めて、やっつけるために豆をまくのでない、はじめから自分の中の悪いところを追い出そう!ということで、そういう願いを込めて子どもたちに伝えてくださったのだなと。


上手くつながるかわからないのですが、今日は『観経』というお経をあげました。モジョモジョとね、聞いていてもわからんね、私も読んでいてもわからんことばっかり、でもやっぱりわからんままではいかんので、少し勉強したんです。これは昔々お釈迦さんがおられた時代にあった実在のお話。王舎城という城があってそこに頻婆娑羅という王と韋提希という王妃、そして息子の阿闍世がいた。
息子の阿闍世がお釈迦さんの従弟である提婆達多にそそのかされて、反逆を起こし、父を牢屋に閉じ込めてしまう。『観経』に書かれているのは、その王に王妃が身体に小麦粉の練ったものをくっつけて、身に付けているアクセサリーにぶどう酒をいれて牢屋に運んだ。ある日、息子阿闍世が門番に「父の王は死んだか」と聞いた、母親がしていたことを聞き逆上し、母も殺めようとする。これは家臣によってとめられるのですが、母韋提希も閉じ込める。
韋提希は(仏に親しくしていた目連と阿難を神通力で、会いに来てくれるようにしてくださいと願うとお釈迦様が来てくれた。)お釈迦様に「あなたの従弟のお陰でこんなことになった!」とか「なんで私がこんな悪い子を授からねばならない!」と腹立てて愚痴をぶちまけた。お釈迦様は黙って聞いていた、なんか特別なアドバイスをしたわけではないんです。そしたらね「憂い悩むことなき処をお説き下さい。」「争いのない処を教えてください。」(原文で言うと「無憂悩処むうのうしょ」「清浄業処しょうじょうごっしょ」)と韋提希が願った、と書かれている。なんか気が抜けたようなね、ほんなことあるわけないと、まあお経の話やさかい、そんなんになっとるんかなとずっと思っていた。


ところがね、お正月に家族でトランプなどして遊んだんですが、住職が娘に「あんなおこりんぼうはほおっておけ」だの「やってやれ!(こらしめろ)」だのと執拗に言いと二人で二時間ずっと嫌がらせを連発した。腹立ってね。なんもかもいやになった。住職の陰険なのに腹が立つのはいうまでもないけれど、娘のことも「この子さえいなければ私は自由だ」怒ることもないしとか、そのうち昨年ご門徒から言われたことを思い出してムカムカと腹が立ち、ネットであった言葉に腹が立ち、あの時あの人のあのことが腹立つとひっぱり出し指折り数え全てが憎らしくなった。ブツブツと数える怒りが最高点に達した時、誰も恨まなくていい自分も責めなくていい処を求める私に出遇った。「観経」の韋提希と同じ、「無憂悩処」「清浄業処」を願っていた。びっくりしました。


「無憂悩処」「清浄業処」を願うことで『観経』は終わらない、そこからお釈迦様が「上品上生」からずっと「下品外生」が説かれるんですがね。(地元の親戚のおじいさんこっくりこっくり。)


仏教の言葉に「高原の陸地に蓮を生ぜず、卑湿淤泥(ひしつおでい)に蓮華を生ず(『維摩経』)という言葉がある。すっと風が吹き渡る爽やかな高原では蓮華は咲かない。「卑」「湿」「淤(どろ)泥」に蓮華は咲く。蓮華は清浄なる華、どろどろというのは煩悩にまみれているということをさす、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心。ところがそこにこそ蓮華は咲く、真実の教えが届くのだと。どうですかね。


うまく繋がらなかったかもしれませんが、そういうことで、仏教に願われてきたことと、昔からの伝承として願われてきたことと考えていたところです。これで終わります。