穢を捨て、浄を欣うから、行に惑い、信に惑う

聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもっ
て、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
(『歎異抄』後序)

善悪のふたつ総じて存知せざるなり、という言葉に、自分を愛せない、受け入れられない私の鱗が落ちる。
浄土にたいする穢土、という相対的な浄土ではない、「ただ」という絶対無限の浄土。

穢を捨て浄を欣い、行に惑い、信に惑い、(『教行信証』 総序)

穢を捨て浄を欣うから、行に惑い、信に惑う、(和田先生訳)
諦らかに知らされる今、善い子、悪い子でおろおろする事が無いのでしょうね。善い悪いと決めること自体が怪しいもの。