五月の御文(おふみ)五帖目五通

5 信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。


このゆえに、南無と帰命する一念の処に、発願回向のこころあるべし。これすなわち弥陀如来の、凡夫に回向しましますこころなり。


これを『大経』には「令諸衆生功徳成就」ととけり。されば無始已来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退のくらいに住すとなり。


これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃をうといえるは、このこころなり。此の義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能く能くこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

南無阿弥陀仏のすがた」について、平野修先生の本には、

阿弥陀仏というこの名が何をあらわすかと言えば、我々の在り方が「私のもの」の上に私を立てて、その私を助けようということを根本の動機としている。そのことが原理的に「地獄・餓鬼・畜生なからしめん」ということを不可能にしている。もっと、ことを正確に言えば、「私のもの」の上に私をたてて、その私を助けようということで、何とか地獄・餓鬼・畜生をなくしたいものだということを課題にするけれども、その同じ「私のもの」の上に私を立てているということが理由になって、そういうことは不可能であるということを我々に思い知らせるということが南無阿弥陀仏の名のいわれであったのです。

南無阿弥陀仏のすがた』慙愧の御遠忌・「御文」聴記 平野修(東本願寺 同朋選書)