親鸞教室4/27メモ 後半

親鸞聖人は、19願20願・・・
『観経』、浄土に生まれたいものまず慈しみ、慈心不殺(じしんふせつ)本当にあたたかい世界を求めるならふさわしい人間になろうという思いを起こしてくれ、いかなるものに対しても。生きとし生けるものに慈しみの心を、そういうのが出てくる。実は慈しみの心を起こして自他共に救われていく。


善、諸善万行、「善」この世を仏様の国にしていく方法。諸善の一番最初慈心を起こしてくれ。こういうことがないと罪悪が出てこない。罪というのは外から規定されることでない。罪悪、慙愧心、悪い、の中に申し訳ないという 慙愧心 罪ということ感じられる。


阿闍世、父の王を殺す。父の王を殺そうとして牢屋に閉じ込めたときに、阿闍世の母親で王の妻である韋提希がこっそり瓔珞といって、耳飾に食べ物などを入れては面会に行って王に食べさせていた。ある日阿闍世は門番に「父の王はもう死んだか」と尋ねる。門番は韋提希が差し入れている、止められないことを話す。阿闍世は韋提希を「お前も私の敵だったか!」と殺そうとするが、家来に止められる、「父親を殺した王はあるが、母親を殺した王子はいない」。阿闍世は最初はいいことをしたくらいに思っていたが、だんだん後悔するようになる。想い出す。病になり、熱をだす。瘡ができた。家来がいろんな言葉で慰める、「王は死ぬ運命だった」「王は自業自得」・・・慰められても後悔が止まない。救いを考える。


韋提希の救い、お釈迦様にたすけて。私たちだったら何が救い?子どもである阿闍世が牢屋をあけて、父の命がつきる前に間に合うこと。しかし、韋提希の救いは違う。阿闍世の救いは・・・


宗教がしていることごまかしを教える。心のもちようを教える。「三代前の王の供養をしましょう・・・」「つきましては金の延べ棒がいります・・・」私たちのやっていることと変わらない。法事をして「これで一安心です」ということが聞かれる、どうですか。そういうことをしてきた。


韋提希・阿闍世に、そういうことがその一点があなたの救いになる、だからお釈迦様のところへ行って、聞きなさいという空中からの声、耆婆の言うとおりに。
空中からの声は父の声、死んでからなお子を思う。阿闍世は悶絶する。罪は外から規定されるものではない。慙愧心に感ぜられるもの。


五逆 父殺し、母殺し、殺阿羅漢、破和合僧(和合層は僧伽、ともに教えを聞く仲間、教えを聞くご縁をくださった方々を破壊する。)


その人が脱却できずに苦しんでいるということを泣く、罪ということの感覚。
どこまで行っても宗教、科学・・・自分一個が楽になりたい、凡夫、本当に仏道を求めようとしていない。喜んだ信心をたのんでいて、本願をたのむことがない。


それでもなお、そのことは百も承知の上で、方便の悲願として本願を立てているのが如来南無阿弥陀仏が届いた時に、罪悪深重ということがでてくる。自分で指折り数えているのでない。


悲しみ・・・全部道具として、道具に囲まれいのちを失っていった。人間を念仏に帰す(かえす)、人間を人間に帰すはたらき大悲、迷いの身に帰す。人間そのものを・・・大きな転換。


誰のことか、如来が人間を見出しているまなざし智慧の目、私たちが失っているのは私たち自身の身。
今日の和讃は正像末和讃

劫濁のときうつるには
有情ようやく身小なり
五濁悪邪まさるゆえ
毒蛇悪龍のごとくなり

仰ぐものを失って、身が小さくなる。全部が道具に見える、水、空・・・
道具にしてきたものをかえす、山・・・
ただ一つの人間に帰る。山は山にかえるような世界がある。

親鸞聖人は業力不思議、いろんな・・・
身が小さくなる、身を忘れていく。人間であるということがわからなくなってしまった。人間であるということをひきうけて生きたことがない。(親鸞聖人は)人間というのは煩悩具足のわれらだと身を見出している。

【座談】
Q阿闍世は救われたの?
すくわれなくていいというのがすくい。迷っているままでいい。
本当に苦しみがなくなると、「もう少しこのままがんばろう」
迷っていてあたりまえ
罪の感覚、罪を感じる心が仏のこころ。親鸞聖人はごめんなさいがいえないと泣いた人。

Q本願とはなにか?
阿弥陀仏の本当の願い、全てのものをすくいたい。全てのものすくわれなかったら、私はすくわれない。そういう仏がいるとお釈迦様がお話してくださった。