法話2(後半)浄土真宗にふさわしくない言葉

(過去の原稿とかぶっています)
・・・昨日は、現代の子どもたちの苦悩ですね、「親鸞聖人の言葉がゆるしである」そいういうようなことをお話しておりました、どうしても聞いていただきたかったことの一つであります。まだいくつか、大きな問題、例えば、「自死自殺研修会」で学んだことをお伝えしたいということもありますが、五日もありますから、今日はちょっと楽に聞きやすい話をしたいなと思ってきました。
(中略)

三月一日のことです。ご命日のお参りに行っているので、この一日という日をよく覚えているのですが、「お父さんの命日だけれども、弟(長男)とその嫁と深いけんかをしているのだ、どうか、お経をあげてほしい、」と寺に来られる方がおいでました。
私はお経をあげ、焼香していただいてから、
弟さん夫婦が、月忌参りを大事にしておられること、昨年の夏は暑かった、あこのうちだけでした、お参りに行ったら冷房がついていて、びっくりしました。さすが、ずっと門徒総代をされていた方の息子さんだけあるなと、思った。それからこの前いったら、あったかいがに暖房してあった。新しいおうちでぽかぽかと優しい陽のあたる部屋で、ああ、「カンロ飴のおじさんも喜んでおるだろうな」とお伝えしました。ちょっと「安心した」とおっしゃった。


そして「ご存知でしたか、浄土真宗は亡くなった人のためにお経をあげません」と申しました。そしたら、お姉さんたちは驚かれてね、「法事・・・」といいかけた。「亡くなった方は、浄土へ還る、供養するためにお経をあげなくていいんです。浄土真宗の仏事は、法事でも葬式でも、亡くなった人を縁として「唯念仏」の、お念仏の教えにあうということを願いとしているのです。」と申しました。


さて、この辺は何カ寺ありますか?私らのところは金津六カ寺。葬式があればその六人で勤めることが多いです。葬式に呼ばれると弔辞がありますね、聞いていて、いろいろ思います。もらい泣きというかね、きいとって涙ぐむこともお互いにありますね。
たいがい地区の代表、地区会長がやるんですけれどもね、朗々とやる方、とつとつとやられる方、それぞれですね。その日は地区会長さんが朗々とやった。
「・・・亡くなった○○さんはとても信仰に篤い、熱心な方で、四国のお遍路参りに周ったし、神社のでーっかい旗を新調した!」とおっしゃいまして、坊主たちは、「がっくり」となった。(ちなみに念仏はでてこなかった)葬式が終わって、共に「がっくり」となった僧侶仲間に「今日の弔辞はあんまりでしたね」というたら、中啓をこうやった。
なんと弔辞を述べた方がお布施を持っておいでた。こうなりゃ、なんでおかしかったのか言うしかない、否定だけされてもわからない、わからないからそんなことを平気で言うんですからね。「浄土真宗は唯念仏であって、それ以外のことを熱心にやった、というのは浄土真宗の葬儀にふさわしくないのです。」とお伝えしましたが、まあ、おじじはおこっとった、お前みたいな若いがに!と言わんばかりでした。


それからね、この前○○の方が亡くなって、50代の若い方でした。その方が私の村の出身だったので、興津の二カ寺のお寺さんと、私と呼ばれまして、行きました。
お通夜に皆で正信偈を勤めた、「お勤めの声がでかかった!そちらの方はなんと熱心な方が多い!」と興津のお寺さんに褒められてうれしかった。


次の日、葬式で同級生の余地の人が弔辞を述べた。本当に心のこもった弔辞でたいがい泣きそうになった。控え室でも皆さん感激しておられた。ところがね、
若い人ですから、「天国へいった」とか「天国から見守って」と、「天国」という言葉が三度言われた。この日は浄土真宗の寺が四カ寺招待を受け、浄土真宗の葬儀が執り行われました。「最後のあれがねぇ、」と私たちは思ったわけです。


そのうちのおばあちゃんもたいがい熱心でうちにも参りに来てくれるんです。お手次ではないですが、当寺が月参りへ行っているお宅ですので、意を決して話に行ってきました。ね、「若いから知らないのだな」と今はよくても、○○さんのところは熱心な真宗門徒で、おじいちゃんの姿を見られていたということか息子さんたちも熱心な方が多いです。お通夜でも、「正信偈」のお勤めの声の大きいのに他所の人達が感心しておられたんです。「天国」は場に相応しくない言葉です。真宗門徒は亡くなったときに、「浄土へ還(帰)った」という、とね。


そういうことで今日は「浄土真宗にふさわしくない言葉」という資料を持ってきましたので、ちょっと目を通したいと思います。実はあちこちでこの資料でお話しました。先日隣の在所のお講でお話したら、怒られてね、大変勉強になりましたので、順番にお伝えします。こういうことは、私は本山の同朋会館で全国から来られる奉仕団の方々と共に聴聞するという仕事をさせていただいておりますが、聴聞が生活になるわけですが、すると、すっとこういうこと、例えば、戒名でなくて、法名なんだ、がうなずけるということがあると思います。ちょっと得意分野かもしれません。


「浄土真宗にふさわしくない言葉」(本題中略)


そういうことで、最後にね、先日、電話がかかった。「占い師に、あんた先祖の供養をしていないだろう、寺いってお経をあげてもらいなさい、といわれた。何代前かのじいちゃんと、それまたこうなった人の名前を教えて欲しい」というてきてですね、母が電話に出て困っていました。私は冷たいようですが、「寺の過去帳は閲覧不能です」と伝えました。これはプライバシーの問題で禁じられています。どうしても気になるなら、親戚に聞いていただけばいいのです。「お経をあげて欲しいから、この日に行きますので、お願いします」ということだった。


約束の日、私は「阿弥陀経」とその方が幼い時に聞いたことがあるであろう懐かしい正信偈をあげることにした。その後、母が、「私は寺のことをしているわけではないので、詳しいことはわかりません、本山で勉強している娘が、過去帳を見せることは絶対いけない、といいます。ただ、浄土真宗では「亡くなった人を供養しないことによって災いが起こるとは決していわないんですよ、亡くなった人は浄土へ還る、仏さんになるといいます。」と伝えた。占い師に先祖供養していないだろう、といわれたそのご夫婦はそれまで、一生懸命、家系を手繰ったけれども、どうしてもどうなったかわからない人がいて、本当に困っていた。でも母の言葉を聴いて「少し楽になった」といって帰られたそうです。


さてどうか皆さん、お経にあう、法事をする、そういうことをどうか、死者への「追善供養」、お経やお念仏の功徳を亡くなった人や自分に振り向ける、ということではなく、「唯念仏」の教えに遇う、大事な機会として、これからも聞き開いていきたいと思います。これで終わります。