自死・自殺研修会 問題提起 (いのちの願いを見失って迷う)

テーマ「今、いのちをあなたが生きている」サブテーマ「人間といういのちの相(すがた)」問題提起 佐野明弘師 メモ

宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ「今、いのちをあなたが生きている」どんないのちを生きているか、人間といういのちを生きている、実はそのことに私自身がひっかかる。本当に人間として生きたことがあるか、「人間」をひきうけて生きたことがあるだろうか。いのちが人間という相(そう)をとってここにいる。それが私。間違いはないがそのことにひっかかります。

いかに生きるか、どうしたら・・・「どうしたら」は生活、行為、行(ぎょう)、常に私たちは行を問うという問いがほとんど、行を問う。「行」どう生活したらいいか、何をしたらいいか、行を問うている。それを難行、やってみても、すえとおらない、やらなくても問題。そのときに常に行を問うているが、信、行の背景に信がある、それぞれに信心、ところが信心が自明のこととして問われたことがない。

同朋会館で「真宗門徒としてどうお勤めしたらいいか、」ということは問われるが、「真宗門徒」が問われることはない。つまり行が問われて、信が問われることがない。

行を問うのでなく信が問われてくるという立場がある。人間であるということ、人間と生まれたことはどういうこと、教えを聞くということはどういうこと、本当に聞きたいか、人間であるということが問われてくる。難信の業がきいている。思いより深いところから問うてくる如来の業。

人間といういのちの相(すがた)は人間が展開しているこの世を見ればわかる。自死、いじめ、差別・・・
教育 道徳 倫理になってくる。
この世のあらゆる問題はすべて人間の問題、人間からおこってくる問題、罪悪生死というが人間だけが罪を犯す、また迷うということも人間だけ。「猫は悩まない」という禅宗のお坊さんの本を見かけた。手にとって読むことはなかったが、ようするに、猫のように生きよ、と書かれてあったのだと思う。

一切のいのちはいのちの願いのもとに生きる、迷っていない。花は花を生き、鳥は鳥に、おたまじゃくしはカエルに、おたまじゃくしがカエルでないものになろうとはしない、ところが人間だけがどうしたらいいかわからない、生き方がわからないのでなくて、人間であることがわからない、その中にあって、人間だけがいのちの願いを見失って迷う。苦しむ。

人間に生まれてどうしようもないものを抱え、いのちを絶ち、絶とうとし、あるいは今なお悩んでいる。それでもなお、悩み続けて止まない。それを人間という。

自死は孤独の魂の叫び。人間は自らのいのちを見失い 悩み続けて止まない、ところが願いが人間を見失ったことはない。私たちは見失っているけれど、願いが人間を見捨てたことはない。だから迷う。悲しみはどこから来る、悲しみ、迷い、厳粛なるいのち

自死遺族の問題を取り上げ人間に帰っていく、

僧侶がいのちの尊さを安易にといてそのことが遺族の人達を追いつめることがある。「自らいのちを絶つことはいのちに対する冒涜だ」とわかった者として説く事によって追いつめる。自死ということに対する僧侶の無知からくることを、私たちは留意しなければならない。


これもまた常識的な良心で、相手を楽にしてあげたいという思いで「いつまでもメソメソしていたらなくなった人がうかばれないから」とか「もう一人いる子どもを亡くなった子の分まで大事にしてあげよう」というのは、なんとかしてあげたい、相手の気持ちが楽になってほしいと声をかける、
実はそれは、ずっと寄り添うということで、付き合うことが嫌、楽にならないと自分が辛い、はじめから本気で付き合うのが嫌、ということです。

自死の問題、遺族の問題を通してはじめて「関係を生きる人間」ということに触れていく。

昨年の同朋新聞9月10月に、12年前にいじめで自死した中学生、大河内清輝君のお父さんのインタビューを掲載しました。その中でお父さんが一番辛かったことは、自分の子どもを死にいたらしめた悲しみよりも、自分に一言も「くるしいよ」といってくれなかった、どんなに苦しかったか、ということに気付いてあげれなかった。どんなに苦しかったか、どんなに辛かったか、そのことを少しでもわからなければ、息子に合わす顔がない、と、同じ悩みを持つ人に話を聞いた、大河内さんに聞いてもらって生きる力を取り戻した人、そして大河内さん自身も、

同朋新聞に遺書が全文掲載された。清輝君は家にいるときだけが幸せだった。遺書に「もっと生きたいけれどすみません」と書いた。親が自分を愛していると知っていた。互いにこころを寄せ合っているにもかかわらず、あい通じ合っていかない、人間、人生の難しさ、
迷いの深さ、如来は「真宗門徒」ではなく「迷いの衆生」と呼ぶ、その呼びかけに「それは私だ」とうなずいていったのが宗祖。