思いかえして、読まざりし

よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、
これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。
人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなおして後は、経読*620むことは止りぬ。さて、臥して四日と申すあか月、今はさてあらんとは申す也」と仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせ給いて候いし也。(『恵信尼消息』五)

しかし、私もらくりんさんの講義ノートをまとめて落ち着いたりする。


落ち込んでいたら、朋友というか、親友からあたたかいメッセージが届く、彼女がわかってくれているように、辛い事があるとモサモサと聴聞ノートを整理するのは癖かもしれない。

それは飢饉で人々が喘いでいる時に、千部経を読誦しようとして、「名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや」と思い返して、親鸞は読むのを止めたけれど、私は辛くて耐えがたい時は、教えにかえる。そんなものは「困った時の神頼み」でしかない。

実は、そんな学びかたしか出来ないのかもしれない。クソのような宗教心。 それでも、そんなことでは越えられない悲しみもある。今回はその程度だったといえる。


たった一人の私の戦友、ありがとう。