出離生死は実践的にまったく不可能

和田先生の言葉を本を読んで感想を書こうなんて、難しい。幾度か試みましたがまだ無理です。

特に印象に残るところを書いてみます。

そこで今日課題を求められまして、「出離その期なし」というお言葉を頂戴しました。これはご存知のように『教行信証』の化身土巻のいわゆる終わりの方に出てきますところの悲歎述懐の文と申されておるその言葉でございます。


悲しきかな、垢障(くしょう)の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定散心雑するがゆえに、出離その期なし。


このお言葉ですね。それからさらにご和讃をいただきますと、「正像末和讃」のなかに、
末法第五の五百年
この世の一切有情の
如来の悲願を信ぜずは
出離その期はなかるべし


と、ここにもそういう言葉がでてまいります。生死を出ると。これは、なにも真宗に限らず、仏道を志すもの必ず生死を出るということが、必須の課題と申しますか、「仏道とはなんだ」というと、「生死を出る」ことだ。その生死を出るということは、これは頭で原理的におさえますと、案外すっきりわかるんですね。生死をでるということはどういうことか。ところがこれを実践上の問題として見ますというと、ほとんどそのことが不可能であるという問題がございましょう。仏教である以上、必ずどのような教えであろうと全て生死を出る。生死にとどまるのでない、生死を出るということが仏教の一番大きな課題でございましょう。


ところがその生死を出る道としていろんな道が説かれております。われわれは仏教的な常識で了解しておりますのは、すべて生死を出る道を指示されたものであろうと思いますね。ところが頭でそのことを考えると、非常にすっきりわかったようなきですけれども、いざ実践的に自ら生死を出ようということになりますと、じつはそのことがまったく不可能であるという問題に突き当たるわけでございますね。これ大変な問題だと思います。私自身がいままで、その重大な意味をあまり感じないできたわけです。軽率な話です。生死をでるといえば「おう、そうかそうか」といってですね。(笑)それで、生死を出るにはどうしたらいいかということを頭の中でいろんなことを論理を組み立てたり、いろいろ思いを凝らしたりしてそのことばっかり考えてきた。ところが出離生死ということが実践的にはまったくそれは不可能だという、その事実を何か棚に上げて今日まで来たような気がするんですね。どうでしょうなぁ。厄介ですね。

「生死」ということを幾度か聞いた。清沢満之の「生のみが我にあらず。死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり。(絶対他力の大道)」という言葉を聞いた。「現代は「生」ばかり問題になっている。」とおっしゃっていた。
「生死」とはなにか、答えになっていないかもしれないが、「生死の迷い」だと読み替えて言葉に触れている。(続く)