親鸞教室4/27メモ前半

【提言】鈍行で兵庫から来ました。どうしよう、どうにもならない。道がない、歩めなくなる。歩む力が欲しい。歩み続けるとは。信心を力に。
「今の自分は嫌ですか?(佐野)」「嫌です。」


(Nさん)法然親鸞と同じ課題を持つ、聞法会へ行っていた時に「和田先生と課題が違う」ことに気付いた。和田先生は「靖国」、「靖国」でも私と和田先生は違う。


【発題】佐野明弘
人間であることに落ち着かない。
歩む、課題ということが聞かれた。生きている。生まれてきたことに根拠を感じられなくて虚しい。このために生まれてきたのだといううちこめるものが欲しい。

職業で生きる意味を見つけるということがある。また生活はどうであれ心安定していけばいい宗教的な安心(あんじん)を得ようとする。(皆さん笑われるかもしれんけれども)私は悟りを開こうと思った。開けるような気がしたから修行もした。皆さんもやってみるといいかもしれません。(笑)


外側を問題にしていくよう
課題をする 課題と自分を別にしているよう
教育環境差別さまざま

自分でないものに打ち込む、ということで、自己を見出していこう、自分を頷いていこう、ということがある。いつも言いますけれど、私というものが先にあって、「私は、○○です。」○○(ここ)に入れるものを探している。実は社会の問題。人間の問題。人間抱えている。社会が展開している。本当の問題は「私」人間そのもの。


歴史の中で、中世から近世、封建制でも、常に仏教というものが人間問うてきた。生死というもの抱えている人間に、そのままでいいか、人間問うてきた。仏教の形態が出てくるのが天平時代、国家をあげて、国分寺、十七条憲法ということもあるが、仏教の問いに人間として応えて行こうとしていた。平安時代になると、末法思想、どっちを向いて生きるか、仏教の教えから問われ、考えていった。鎌倉時代になって、生死の問題、鎌倉新仏教と呼ばれる、民衆の側から起こって来る。仏教の側から人間を問うた。資本主義は、人間の側から仏教の価値を問うた。こういう時代は初めて。仏教だけでなくあらゆる思想の頂点に人間。何かに頭を下げることがない。


先日お参りの時間に「いつもより10分早く来てください」と連絡があっていった。ずいぶん気の毒がっておられるので、「いいえ、私も遅くなることがあります、お互い様です」と私が言った事に感激され、「お互い様!、何十年振りに聞いた」「お互い様!」繰り返しておられた。お互い様というのは自分だけが正しいのではない、ということですが、「今のおかあちゃんらは、文句だけ言う」とこぼされた。人を問うことは徹底的なんです。香山リカという方の言葉に「プチ正義感」というのがあって、大きな企業の不正はさほど気にならないが、隣の人のことはものすごく気になるということがあります。周りを問う、自分が問われない、資本主義社会はあらゆるものを問う。


修練のフリーをしたときに、「仏教に期待していません」という人がいました。「仏教をやる気はしない」ということなので、班の担当がなぜ修練で教師資格をとりにくるのかをたずねた。すると、「お寺はつぶしたくない、会場にして、カウンセリング講座などをする」という。仏教は救っていないが、カウンセリングは人を救うとその人は思っている。それは仏教はどう役に立つかと仏教を問うている。


人間が一番上に立って物をみている。一切合切を全てのものの利用価値を考えている。教えをまた道具として見ている。同じ見方で山も川も全部道具「資源」という、資源の資は、次に貝、貝は昔お金だった。次に金になるのが資源。(嘘ですけれどね、たぶん違わないでしょう)山も川も森も空も、次に人間に役に立つものとして物を見ている。(あいだみつをさんの詩だったかな)魚を売っている魚屋に金を払ったことはあっても魚に金を払ったことはない、どうですかね、魚に金を払うといっても命は売ってくれないでしょうね、言い得て妙でしょう、そういう形で周りを見ていくから環境破壊が起こるのは当然。


人間を価値体系に入れるとき、人間もまた資源になる。機能「ファンクション」どう機能するかが、人材の基準になる。昔がいいというわけではないが、私が小さいときに隣の90歳おじいさんは、こんな大きな湯飲みでお茶を飲んでいる。一日中お茶を飲んでいる。日中はちょっと外に出てかつを節を削る、そしてまたどんと座ってお茶を飲んでいる。歳をとっているだけで敬われていた。機能を問われたらあり得ない。歳をとるということは機能が悪くなっていく。人材、肩書きは「私の使いようがよろしい」「使えますよ」ということ。道具として見て行く。人間を問われるということ一度もなく。人間そのもの。


道具が人間を救うということはない。本質的に救うということは絶対ない。新幹線がどんなに早くなっても人間が救われることはない。一度も問われることない人間が、目覚めるしかない。自己確定、「私は○○。」不安定だから、確定できないから、確定しようとする。これだという時だけ、上手くいっている時だけ調子がいいが、もともと確定していないから必ず崩れる。人間を中心として歩む宗教、思想、科学、人間を出発にしている。人間であることに帰っていく、それを親鸞聖人は「聖道・浄土の変わり目あり」とおっしゃった。


現代は、人間であるということがはじめから素晴らしいという、一つの風潮があるが、中世からずっと、それまでは強く無常感というものがあった、江戸時代くらいまで。鴨長明方丈記』ゆく川の流れはたえずしてしかももとの水にあらず、人も川のように流れていく。裳との川にあらず、生きていくことも過ぎ去っていく人生、流れに浮かぶうたかたのようで、うたかたというのは泡ですね、かつ消え、かつ結びて、いずれは消えていく泡のようなものである。

金剛経』夢、影、一生何をしてきた、夢の如し、幻の如し、移り変わって止まないのが人間。

罪業、罪悪深重、中世の人たちには感じるものとしてあった。素直にうなずけることは、はかない、いつ終わるかわからないいのち。罪業を抱えた人間としてきていた。ところが現代は「死ぬ」ということも忘れてしまった。「死ぬ」ということひとごとにしか出てこない。


お参りにいって、ふとついていたテレビを見たら、「美しく若く(クリーム)」「頭皮から毛髪を」長い時間をかけて開発したのだという!若さのために若さを保つために長い時間をかけて!それからまた驚いたのは、「下着」をつけることによって三段腹にくびれができるのだという、すごく疑問を感じた!外したら、もとの三段腹に戻るのに!美容とうまいものを食べるだの、いいところに行くだのが現代の中心になっていて、無常、罪業感を感じさせなくなっている。罪悪深重といっても、なんのこっちゃ、伝わらなくなっている。ひたすら快楽を押し付けて。「快」


「身」身は、身だけでできていない、環境「土」。身土不二(しんどふに)といって、自分は自分だけでは存在できない。身になるもの世界からとりこんできた。3日食べないと、横になると、血がひくのがわかる。3日前に食べたものが今自分を支えている。100日で人の細胞が入れ替わる。骨以外は200日で入れ替わる。四大和合(しだいわごう)という。身と土はひとつ。


資本主義経済、人間のあり方いろんな
もう一度地球中心に、という新しい動きをはじめた。ミヒャエル・エンデが言ってきたように、資本主義の発展は、人間の犠牲か、自然破壊しかない。何かを犠牲にして食い尽くす、そのものによって発展するのが資本主義。そういう人の中から、
地球もろとも死んでしまう、絶滅に向ってまっしぐら。皆さんご存知の方もおられるように、10年後は温暖化の最終
このまま二酸化炭素の排出量が減らないならば、20年30年後には今私たちの住んでいるところが沖縄と同じ気候になる。リミットが10年ない。20年30年後に二酸化酸素をなくしてももうすでに遅くなる。
昨年たまたま見たテレビに、北極のアザラシの出産について、アザラシは水中深く潜るが、氷の上で子どもを産む。子どもはしばらくして潜れるようになる。ところが温暖化で氷が薄く、氷がゆらゆらして、産まれた子どもの75パーセントが海に落ちて死んでしまった。

南極でもペンギンが産卵期が3度で、これまでは氷点下だったのに、雨が降ったり、不安定で、体温調節ができずに産まれた子どもが次々死ぬ。母親ペンギンが空を見上げて涙をこぼして泣いていた。


地球全体が、
放射能
武器を取り合って殺し合い、
身は世界とひとつ、世界と共に滅びていく。本当の世界を求めていく、阿弥陀仏の世界、土、本当の世界、真実なる世界、それを課題としているのが浄土の世界。
(続く)