金沢 竹中智秀先生を偲ぶ会3 法話弧野院長メモ

法話:大谷専修学院 弧野秀存院長


まず経歴、後半は課題を述べたいと思います。竹中先生の法名は「専修院釋智秀」文字通り、専修学院という念仏の学校に歩まれた方。計算の便宜のため西暦でお話します。1932年、兵庫県ホウエン寺というお寺にお生まれになりまして、やがて大谷大学に学びますが、病のため中退されます。1958年33歳の時に大谷専修学院に入学、この年9月に信国淳(あつし)先生が新しい院長先生として赴任。信国先生が学院長としてはじめに着手したのが「願生」という機関紙を発刊することでした。このときに竹中先生は創刊の準備が始まったときに編集委員をされた。以後ずっと主事になられるまで15年間「願生」の編集にたずさわってこられた。(この頃の竹中先生のことは弧野先生は知らない。会場には知っておられる方もおいでると思う。)


1966年岡崎別院の書院から火事が出た。その直後に「願生」が発刊され、「願生」のあとがきに竹中先生が書いておられた。私はひそかに「竹中先生あとがき事件」と呼んでいる。(微笑)
「もえたもえたもえるものもえた」
これが本山の逆鱗に触れ、本山からよびだしをくらった。竹中先生の面目丸つぶれの文章となった。


「願生」に時々文章を寄せておられる、題名だけ申します。1967(昭和42)年開申事件を発端とする教団問題が起こる前に「僧伽の悲願」僧伽と世俗の問題。1976年教団問題がピーク、ご無礼な言い方になるが、混乱の極みをむかえる頃、「真宗本廟とそう・・・」。やがて教団問題が一応
翌年1977年、真宗本廟同朋会運動15周年で高史明(コウ・サミョン)さんが「念仏よ起これ!」というお話をされていたときに、竹中先生は「宿業と使命」−真宗教団と神道問題、
諸神本懐集(しょじんほんがいしゅう)によって話された。その書物は歴史の先生なら知っているが、画期的なことだった。昭和58年「衆生の使命」−無仏の世界への往生


昭和41年の「「願生」あとがき事件」の直後、大阪ジョウキュウ寺に入寺され、「後藤」姓から「竹中」になられました。これはちょっとしたエピソードですが、先生の密葬の時に沢田さんから聞いたのですが、養子に入った結婚式を専修学院講堂で行われた。ジョウキュウ寺の人がよく許してくれたなぁと思う。まさに学院が現場だった。


昭和49年春(何人か学院長)の後、1988年から学院長として18年間、親身を捧げてこられた。私(弧野先生)は中川皓三郎(こうざぶろう)先生から主事を引き継いだが、竹中先生は院長になっても主事で「弧野くん、ちょっと」と呼ばれ、「本山でこういうことが起こっている、どうするかね。○○に聞いてきてもらえませんか」ということであった。どうにか主事の仕事が一人でできるかなと思った矢先に、心筋梗塞でお亡くなりになりました。


四月になってから忙しくてまだ無いですが、夢を何度も見ました、「弧野くんちょっと」と呼ばれる。先生が亡くなってから(毎週月曜日の院長講義)「歎異抄講義」をうけもったが、大変で、一週間そのことだけを考えているような。夢の中で月曜日をむかえ、夢に竹中先生が現れて、先生はいつも職員室にあるチョークをポケットに5、6本つかんでいれるから、ポケットはいつも真っ白で、そんな光景を。「先生が講義してくださるか、たすかった。」


竹中先生は「学院づくり」ということにつきる。「浄土を映し出す生活をしていきましょう」「浄土が開かれるような場になるように」。この問題を最初に提起されたのが、教団問題、廣瀬杲先生、寺川俊昭先生、伊藤慧明先生かも知れないが、私にとって直接的には児玉先生がはじめて。「浄土・僧伽・教団」という三つの言葉を持って、私共の問題課題を整理されております。「浄土―本願論」、とすれば、「僧伽―信心論」といえるかと思います。真実信心と教えられる言葉が開く信ぴょう世界。そして「教団論―社会論」、教団というのは社会論。範疇化していえばこのように配当できるかと思います。


「教団―社会論」ですけれども、本願の仏法が具体的な一人の人の上に信心として樹立、具体的に真実信、まことのひと、どのような歩み、どういう生活をしていくのかということが、「教団―社会論」。社会は一番広い範疇をとれば国家。日本社会では天皇制を避けて通れない。同時に日々の暮らしの現場のところに的を絞れば、生活の一番目のところにまで及ぶ。社会論と申しましても、広く言えば国家論。竹中先生はやはり「浄土・僧伽・教団」という三つの枠組みを取り上げ、私共の大谷派教団は僧伽論は盛んだが、教団論は盛んでないとおっしゃった。仏事問題、私たちの生活のところ、竹中先生における教団論、私共の日常の生活ひとコマひとコマが国家論にまで響いていくような問題。このことを竹中先生がよくおっしゃっていた。


真宗の教えの場面にかえして申しますなら、第十八願欲生心成就の問題が未解決、本願の三心(ほんがんのさんじん)のうち伝統的には信楽(しんぎょう)ということがたずねあきらかにせねばならない。欲生、曽我先生の機(き)の教え、「信に死し、願に生きる」曽我先生がとば口を開けられた、欲生心成就の問題が教団問題として受け止められていない。


長井さんが感話で「病床に次週の「歎異抄講義」のメモがあった」ということを語られましたが、実は断片的なものでした。一つは家族への簡単な生活への指示、それから

神道靖国
触依―仏事


念仏者の生活、お布施にはじまるお寺の経済、仏事の日本の文化、神道問題、教団の最先端で、現場、神道、宿業など、語られてきたのは足元の問題。曽我先生から渡された欲生心成就の問題を最後の同窓会学習会で、「第十七願・第十一願を読み解く」という形で応答されようとなさっている。
(続く)